無花果を食べて思い出そうとするもの

少し涼しくなったかなと思ったら台風が次々にやってきて、体調を崩す人も増えています。早めに寝るなど体調管理に気を付ける必要がありますね。

無花果の思い出

この夏は、自分の謎の行動について時々考えていました。

それは、スーパーなどで無花果を見かけると、連日つい買ってしまうことです。

そして、全神経を集中して(笑)、記憶を探りながら食べるのです。何かが起こるのを期待しているような感覚です。

その感覚は他の果物を食べているときとは違います。

この謎の行動の理由は??

こどもの頃、祖父の家の裏庭になっていた無花果を従妹たちと初めて食べたときに、

「うわあ、おいしい」と感動した記憶があります。

この時の感動を探しているのかもしれません。

当時は今のようにおいしいお菓子もあまりなかったと思うので、鮮烈な印象だったのかなと思います。

記憶と味覚

『記憶』と『味覚』の関係に興味がわいたので、『味(匂い)』と『記憶』をキーワードにググってみました(笑)

すると、プルーストの「失われた時を求めて」という小説がヒットしました。

意志的記憶と無意志的記憶

その中の「紅茶とマドレーヌ」の挿話を引用します。

寒い冬の日に家に帰ってきた主人公は、母が出してくれた熱い紅茶にマドレーヌを浸して口に含んだ瞬間、「素晴らしい快感に襲われ、何か貴重な本質で満たされ」たと感じる。

最初はそれが何だかわからなかったが、やがて、幼いときに親戚の叔母が紅茶か菩提樹のハーブティーに浸して出してくれたマドレーヌの味だと気づく。

それと同時に生まれ育った町の思い出が「一気に、全面的に、生きた姿で」立ち現れてきたのだった。

プルーストによると、記憶には「意志的記憶」「無意志的記憶」があるそうです。

「意志的記憶」は、自らが過去に拾いにいく体験の断片。例えば、昨日の晩御飯のメニューとか、テストのために覚えた年号など、

「無意志的記憶」とは、「味」や「匂い」または「音楽」などの『感覚』をきっかけに、むこうからやってくる記憶であり、それは生き生きとした体験として蘇る、のだそうです。

レモン哀歌

ここで、高村光太郎の『レモン哀歌』を思い出しました。

学生の頃『智恵子抄』が好きで、読み始めると没頭していたのですが、この『レモン哀歌』の鮮烈な印象が、自分の無花果の記憶と重なりました。

そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
・・・

精神を病み、死の床でレモンを噛んだ智恵子の心に、何か生き生きとした思い出がふいに立ち現れたのかもしれません・・・

こちらの世界から遠く離れてしまった意識が、一瞬でもクリアーになったのでしょう。

それは本人にしかわからない「記憶」なのです。

このように考えると、どんなにコンピューターが発達し、ネット上に無限に近い情報・記録が蓄積されても、人間の記憶を再現することは、おそらくできないのでしょう。

記憶とは、あらゆる感覚による体験の積み重ねであり、さらにそれに伴う印象や感情がそこに「意味づけ」をしていくことで、一人の人間の記憶となるのだなと思います。

そして、もしかしたら、それが『こころ』の正体かもしれません。

つい無花果を買ってしまう謎の行動は、初めて無花果を食べたときの感動を追体験することで、なにか封印されている『記憶』を立ち上がらせたい、ということなのでしょうか。。。

人のこころは興味深いですね。

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