日記です。
今年も遊歩道の桜がきれいに咲いてくれています(下の写真)。
でも、この写真の奥にある円形の花壇の中には、去年まで枝垂桜が咲いていました。それは、ソメイヨシノがまだ一分咲きの頃に、少し濃いピンク色の可憐な花を咲かせて、この遊歩道のシンボルツリーのようでした。
ここ数年の天候の変化のためか、その枝垂桜は少し弱っていたようで、昨年はちらほらとしか花が咲きませんでした。
気にはなっていたのですが、ある日その桜が突然切られていて、切り株になっているのを発見しました。
私は「えっ?!」とショックを受けて、それを知った友人たちと共に「枯れていたから仕方なかったのかね」と言って残念に思っていました。
そして、その後そこを通るたびに、切り株を見ずにはいられませんでした。
そのうちに、切り株の周りの土は耕されて、誰かが球根を植えたようでした。
で、昨日、遊歩道を歩いていると
ボランティアで地域の草木の手入れをしている知人が、花壇で作業をしているのに出会いました。
枝垂桜の話になり、実はその方が遊歩道の管理事務所?に「枝垂桜が病気で弱っているから、状態をみてあげてください」と連絡したのだと言っていました。
もちろん、適切な手当てをしてほしいという意図からです。
でもその後、なぜ伐採することになったのか??
たまたま、その方の知り合いが伐採の現場を通りかかったそうで、その時に「なぜ切るのですか?」と作業員にたずねたのだそうです。すると、
「枝垂桜が枯れている、というクレームが入ったから」と答えたそうです?!
それを聞いた知人は驚いて、なぜそのような顛末になったのか、とても残念で心を痛めていたようです。
私も、すごく残念に思いました。
「枝垂桜が病気で見込みがないから切る」のであれば、まだわかりますが、「クレームが入ったから」なのです。
もしかしたら他の誰かがクレームを入れたのだとしても、なぜ桜が枯れかかっていることがクレームになるのか、私には理解できません。
最近は、人って感じ方がこれほど違うのか、と驚いたり残念に思うことがよくありました。その多くは疑心暗鬼や思い込みからくるのだと思います。その鬼は自分の心の中にいるのでしょう。
管理の仕事を続けていると、「桜が枯れかかっている(だから状況をみて適切な手当てをしてほしい)」という依頼は、たとえその意図を聞いていても、「クレームがきた」、と捉えてしまうのかもしれないと思いました。
あるいは、伐採してしまうのが一番簡単な対応なのでしょう。
がんばって生きている桜を切ってしまうのは悲しすぎる、、その思いから、管理事務所の担当者を疑う自分がいます。これも疑心暗鬼と言えるのかもしれません。
誰もが、それぞれのフィルターで、日々ものごとを判断しているのでしょう。。
なので、自分の「感情」や「思い込み」は脇において相手の話をよく聴くことが、とても大切なのですね。
2019年3月、在りし日の枝垂桜
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