このところぐっと気温が下がり体調を崩している方も多いようですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
「価値観」についてじっくりと考えてみると、自分の中に少し趣の異なる価値観が存在していることに気が付いたので、そのことについて書いてみます。
物を選ぶ時の「価値観」
若い頃は「質の良いもの」へのこだわりが強くあったのですが、今は、形あるものは一瞬にして消えてしまうかもしれない、さらに、絶対に安全な場所であるはずの『家』さえも失うかもしれないという思いがあり、「失う」ことを一つの試金石にするようになりました。
失うかもしれない、それでもこれを選ぶのか??(大袈裟ですが。。)
そして、今持っている「大事なもの」は、「大事にとっておく」のではなく「惜しみなく使う」ようになりました。
なので、今は、来客用のコーヒーカップを普段に使い、客用布団も家族用におろし、リビングボードはいまだに「3段のカラーボックス」を使っています。(私が独身時代に使っていたもの。。)
そして、家は「定期借地権付き住宅」というスタイルを選びました。その後の生活に合わせて買い取りか借地かを選べます。
周りをみても、「所有」することへのこだわりが希薄になってきているのかな〜と思います。
これらは、生活の中で自然に培ってきた、ライフスタイルに関わる価値観と言えるでしょう。
自分を守るための「価値観」
もう一つ、少し趣の異なる価値観です。
こどもの頃に築いた価値観
自分に染みついた価値観の中には、こどもの頃「自分を守るために」築き上げたものがあると思います。
私の場合は、父親からの否定の言葉が自己像を形作っていく中で、学校の成績が割と良かったことは(自分で言ってすみません)、唯一自分の尊厳を守る証だったのだと思います。
なので、「学校の成績がよい」ことは、いつの間にか、私にとってとても重要な価値をもつようになっていったのです。
打ち砕かれるとき
その価値観は、私が就職したときに見事に打ち砕かれます(当たり前ですが)。
学校の成績が、実社会では何の役にも立たないことを、初めて知ったのです(!)
それは衝撃でした。その後、実社会で必要なものを一から学んだのでした。
ところが、それでも、その「価値観」は生き残っていたのです・・・
それは、第一子の子育ての中で露わになりました。
周りのこどもたちが普通にできている中、ちゃんと人の話を聞いてやればできるはずなのに、本人もできるようになりたいはずなのに、我が子はそれをやろうとしない。
どうして??と思いました。
そんな葛藤とバトルの日々が数年続き、私もしぶとく残っていた価値観を変えようと努力しました。
それは、生木を裂くような、その価値観を剥がすと柔らかな何かがむき出しになるような、そんな感覚でした。
その価値観の二つの意味に気づく
ある夏の日、こどもが180度人が変わったように突然勉強し始めました。
そこで、ハッとしました。
そう言えば、こどもが、
「夏になったらゲームもやめて勉強するから、お母さん心配しなくていいよ。」
と言っていたことを思い出しました。そのとき、
「ああ、そうだった…!ダメのレッテルを貼って全く本気にしてなかったけど、彼は自分で決めていたんだ。」と思い、
一瞬のうちに、こどもの未来を感じました。それは、突然目の前に道が開けるような、今でも忘れられない瞬間です。
さらに数年後、こどもがこう言いました。
「こうして物理の問題を頭の中でいろいろと考えることがとても楽しいんだ。」
それを聞いたとき、私のなかで何かが成仏しました(笑)
私は、良い成績や学歴を求めていたのではなくて、ただ、こどもに学ぶ楽しさを教えたかっただけなのだ。。。
初めてそのことを自覚しました。
こどもの頃、なぜ良い成績が必要だったのか?
つまり、「学校の成績が良い」ことが自分にとって重要だったのは、父の言葉から自分の尊厳を守ることの他にもう一つ意味があって、
それは、「学ぶこと・わかること」が楽しかったからこそ、こどもの私にとって勉強というものがとても大切だったのだ、ということです。
そして、それをこどもたちにも伝えたかった。。
ある大学の教授が「学ぶことは癒しです」と仰っていたことを思いだします。
今は、「学校の成績」に対する呪縛はすっかり解けていて、こどもたちは、それぞれの個性的な分野に進んでいます。
子育ての中で、自分が握りしめてきた価値観を変えることは、とてもしんどかったですが、通るべき道だったのだなと思います。。。今は、とても楽ですね。
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